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阿仁鉱山の歴史

 

 阿仁鉱山は1309年に金山として開発されたと言われており、その後、銀、銅を産出するようになりました。

1716年(享保元年)には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられ、

阿仁鉱山の名は全国的にもよく知られるようになりました。阿仁鉱山といいましてもひとつの鉱山ではなく、小沢、真木沢、三枚、一の又、二の又、萱草の6銅山(六ヶ山)と向山金銀山、太良鉱山、加護山製錬所から成っています。江戸時代においては秋田藩の直営として、阿仁の銅は貨幣原料や長崎の出島から海外への輸出品として重要視

され、多いときには幕府御用銅のおよそ5割が阿仁鉱山から産出されました。

 

 明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)には阿仁鉱山の六ヶ山と向山金銀山、合わせて太良鉱山、加護山製錬所と付属山林も古河市兵衛氏に払い下げられました。近年まで産出を続けましたが、1987年、資源の枯渇により休山となりました。

 

 ※一説には奈良時代の713年(和銅6年)、平城京に阿仁鉱山より朝廷へ青銅が献上され、

  752年(天平勝宝4年)に開眼供養を行った東大寺の大仏にも阿仁の銅が使われたと伝えられています。

 

 

阿仁鉱山のあゆみ

 

 延慶2年(1309)  金山発見

 嘉慶元年(1387) 湯口内続き向山に銀山発見

 寛永14年(1637)  大阪の商人、北国屋吉右衛門手代、高岡八右衛門小沢銅山発見(極印沢)

 元禄15年(1702)  秋田藩の直営(直山)となる

 享保元年(1716) 銅の産出量が日本一となる

 安永2年(1773)  秋田藩、製錬指導のため平賀源内を招く

 安永4年(1775)  二ツ井に加護山製錬所を建設(運営は大坂屋の請負)

 明治8年(1875)  明治政府(工部省鉱山寮)の官営となる

 明治12年(1879) メツゲルら5名のドイツ人技師が来山

 明治18年(1885) 古河市兵衛に阿仁6ヶ山と向山銀山を払い下げとなる

 昭和6年(1931)   休山

 昭和8年(1933)   二十四孝金山発見、採鉱開始

 昭和45年(1970)   生産操業を中止し、阿仁探鉱所として探鉱を行う

 昭和48年(1973) 生産操業再開

 昭和62年(1987) 休山